大所高所での議論という落とし穴
「週刊!木村剛」の水曜日、1月25日のコラム。構造改革の議論には3段階あって、それを無視した議論は改革自体の足を引っ張るだけという話。個人的には、いわゆる「大所高所からの議論」の偏重が背景にあるように思えるので、少し書いてみる。
<「大所高所からの議論」というもの>
私達の周りでは、「大所高所からの議論」が、現場の議論などより偉いと受け取られていることが多いように思う。政治、経済、社会、教育と相当に広い分野で共通に見られる傾向なのではないか。旧陸軍でも見られた傾向という記述も見かけたことがあるから、20世紀以来の伝統なのかもしれない。
たとえば、新聞や論壇誌の社説・論説欄には、まず具体的な議論は見かけられない。そういうことは新聞・論壇誌の「壇上」でする議論ではなく、「現場の部下にやらせておく事」という位置づけなのかもしれない。
そして、なぜか、「大所高所からの議論」の対極は「銭勘定」とされているふしもあって、そんな理由で、大所高所からの議論を選択している人は多いようだ。
ただ銭勘定の世界では、銭勘定以外の話は、「書生論」として嫌悪されるようなので、具体的・技術的な政策論は、どちらの側でも相手にされていないように思える。
あるいは、日本の人事制度というか職掌配分も、こうした状況に影響を与えている可能性もある。官公庁や大企業では、課長職以上の人達は、具体的な仕事にはタッチしないことが多い。
「大所高所からの議論」をするのが、彼等の職務と認識されているとすれば、大所高所からの議論がなくなることは、まずなさそうだから、そうした議論を受け取る私達の側で気をつけるしかない。
<とりあえずのまとめ>
結局、現場での実効性に責任を持たなければいけない人は、「大所高所からの議論」が、どの段階でどこまで役に立つのか、そして、大所高所の議論では、現場を適切に管理できるとは限らない、という点に、注意する必要がありそうだ。
大所高所からの議論をしてくる相手には、気づいていない事も多いので、その議論が「大所高所からの議論」であることを認識してもらう必要がある。或る時間以上、そうした議論に時間を費やすのを規制する必要もあるかもしれない。
大所高所の議論にしか耳を貸さない人達もいるかもしれないから、現場の人達は、そうした人達用に、大所高所からの議論を用意しておく必要もあるだろう。
そんなことにあまり時間を使っている訳にはいかないので、木村さんは『足を引っ張る』と言っているのだろうけれど、この伝統の根強さを考えると、そうした点には、大所高所からの議論が好きな人の協力を得てかわしていくしかないような気がする。
つまり、構造改革については、「今までを捨て去って新たに始める」という選択ができない場合が少なくない。影で改革を進めていく「サムライ」にとって、つきあわざるを得ないしがらみが相当出てくるだろうけれど、つきあわざるを得ないなら、何とかつきあっていくしかないのではないか。
そして、自分自身が、大所高所からの議論という落とし穴に落ちないよう、気をつけていくしかない。気持ちの点では楽になれる落とし穴のようだから。
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