ネットは世間を狭くするのか
「ネットは新聞を殺すのか」の湯川さんが書かれた、1月29日のエントリー。キャス・サンスティーンを念頭に置いておられるようにも思える。彼の著作については、自分でももう1度書かなければと思っていただけに、呼ばれたわけでもないのに、少し書いてみる。
私の結論からいえば、たとえブロードキャストするような新技術が導入されたとしても、ネットでは、受け取る側の選択が強力に作用するので、個人的な狭い付き合いの世界になるのではないかと思う。
そして、ネットを本当の意味(というより、現在の現実社会で通用している意味)での「公共空間」とするには、ネットの参加者が、この情報空間の維持管理に共通の責任を負う制度が必要になるはずだけれど、そうしたものはまだ議論し始められたばかりで、当分は、(参加者全体の規模からみれば)小さな集団に分裂した空間であり続けるのではないかと思う。
湯川さんがあちこちからバッシングされたとしても、それは一時的なアクセスであって、定常的に、湯川さんの「付き合いの範囲」を広げたとまではいえないのではないか?
まず、上記のサンスティーンの議論の趣旨は、『インターネットは民主主義の敵か』の中で、何度も形を変えて述べられているけれど、はしょってしまえば、『消費者と市民は違う立場だ』ということだと思う。つまり、消費者として行動する時の付き合いの範囲と、市民として行動する時の範囲が、大きく異なっているということらしい。
上記の著作のどこでもかまわないけれど、たとえば以下の部分:
消費者と市民とは別であり、異なる両者を一緒にするのは大きな誤りだ。その違いを生み出す理由として、民主的な選択過程がしばしば人々の最善の願望を引き出すことがあげられる。国として何をやるべきかを考えるとき、われわれは-消費者として何を買うべきかと考えるときより-広い、長期的な視野でゴールを考えるものだ。したがってわれわれは、たとえ消費者としては「面白おかしい情報」を求めても、質の高い情報通信市場を築くべく努めるかもしれない。(石川幸憲氏日本語訳P.132)
些か乱暴に要約すれば、消費者としての選択は、自分の好みを容易に追求できるようになれば、狭く特化していくのが自然な流れだろうけれど、市民の立場では、1つの自治体なり国なりを民主的な手続きで維持していく必要があるから、自分の好みを追求するだけでは十分な選択とはならないだろう、ということらしい。
ここから先はサンスティーンではなく、私の勝手な敷衍だけれど、現時点でのネットなりブログの利用は、消費者としての情報享受だと思う。例えば、私達の大多数は、この情報空間の維持・管理の責任を(殆ど或いは全く)負っていないから、ネットなりブログへの参加について、市民としての視点が求められることはないのではないか?
そうだとすると、ネットやブログでは、私達は、「消費者」として、自分の好みを身近に追求していれば良いことになるから、その「付き合い」の範囲は狭くなってもおかしくないはずだ。こうした状況は、ツールという面では、選択の自由を奪うようなツールの使用を、ネット利用者に強制しない限り、変わらないと思う。
ネットなりブログという空間に対して、私達が、「消費者」である以外に「市民」としても参加するかどうかについては、上記のサンスティーンは、(法律家らしく)ネットを現実の社会の延長と見て、現実社会での「市民」としての必要を満たすために、ネットに求められるものは何か、という議論をしているのだと思う。
ネットを現実社会の一延長とみるか、新たな社会空間とみるかという点については、『インターネットの法と慣習』という連載の中で、白田秀彰氏が「部分社会説」「新領域説」という概念を使って書かれているけれど、ネットは様々な技術や規格、標準によって支えられているけれど、現状、独自の法的な基盤はなく、ネット参加者がそれぞれ属する国民国家の法規と国家間協約で代替されている。
例えば、情報空間に破壊的なダメージを与えても、所属する国の法規に反していなければ、その人は(ネット上で非難はされても)処罰されないはずだ。こうした状況下で、ネット参加者に、ネットの管理責任を同程度に問うのには無理がある。つまり、「ネット上での市民」という立場は、現時点では確立されていないのだと思う。
ネット上で「市民」としての行動を求められない限り、私達は自分の好きなものを求めることに終始する。これが、ネットという空間の維持管理にどんな影響を及ぼすか、まだ分からないけれど、少なくとも、新たに便利なツールが導入されることでは解決できないのではないだろうか?
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