November 17, 2005

ちょっと再開へのテストを

my.Hurusato.orgについては、本体(www.hurusato.org)の方で、9月下旬から再開しました。当面は、まずそちらを軌道に乗せていきたいので、こちら(Annex)の再開は、まだちょっと先になりそうです。

昨年、本体のWirdpressでトラックバック不調が起きた際に、避難所として運営を始めたAnnexだったので、本体が復調した現状では、とりあえず当初の目的は果たせたといえます。

それ以外の目的にも活用できると思うので、ここを閉鎖するつもりはありませんが、とにかく、まだしばらくは、本体の運営を軌道に乗せていく事に注力していきたい。

で、このエントリーの目的の1つは、本体へのTBのテストであったりもする。どうも、SELinuxの関係なのか、TBの受信がうまく動いていないんだよなぁ。

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February 03, 2005

現状のネットは、消費者の空間なのではないか?

ネットは世間を狭くするのか

「ネットは新聞を殺すのか」の湯川さんが書かれた、1月29日のエントリー。キャス・サンスティーンを念頭に置いておられるようにも思える。彼の著作については、自分でももう1度書かなければと思っていただけに、呼ばれたわけでもないのに、少し書いてみる。

私の結論からいえば、たとえブロードキャストするような新技術が導入されたとしても、ネットでは、受け取る側の選択が強力に作用するので、個人的な狭い付き合いの世界になるのではないかと思う。

そして、ネットを本当の意味(というより、現在の現実社会で通用している意味)での「公共空間」とするには、ネットの参加者が、この情報空間の維持管理に共通の責任を負う制度が必要になるはずだけれど、そうしたものはまだ議論し始められたばかりで、当分は、(参加者全体の規模からみれば)小さな集団に分裂した空間であり続けるのではないかと思う。

湯川さんがあちこちからバッシングされたとしても、それは一時的なアクセスであって、定常的に、湯川さんの「付き合いの範囲」を広げたとまではいえないのではないか?

まず、上記のサンスティーンの議論の趣旨は、『インターネットは民主主義の敵か』の中で、何度も形を変えて述べられているけれど、はしょってしまえば、『消費者と市民は違う立場だ』ということだと思う。つまり、消費者として行動する時の付き合いの範囲と、市民として行動する時の範囲が、大きく異なっているということらしい。

上記の著作のどこでもかまわないけれど、たとえば以下の部分:

消費者と市民とは別であり、異なる両者を一緒にするのは大きな誤りだ。その違いを生み出す理由として、民主的な選択過程がしばしば人々の最善の願望を引き出すことがあげられる。国として何をやるべきかを考えるとき、われわれは-消費者として何を買うべきかと考えるときより-広い、長期的な視野でゴールを考えるものだ。したがってわれわれは、たとえ消費者としては「面白おかしい情報」を求めても、質の高い情報通信市場を築くべく努めるかもしれない。(石川幸憲氏日本語訳P.132)

些か乱暴に要約すれば、消費者としての選択は、自分の好みを容易に追求できるようになれば、狭く特化していくのが自然な流れだろうけれど、市民の立場では、1つの自治体なり国なりを民主的な手続きで維持していく必要があるから、自分の好みを追求するだけでは十分な選択とはならないだろう、ということらしい。

ここから先はサンスティーンではなく、私の勝手な敷衍だけれど、現時点でのネットなりブログの利用は、消費者としての情報享受だと思う。例えば、私達の大多数は、この情報空間の維持・管理の責任を(殆ど或いは全く)負っていないから、ネットなりブログへの参加について、市民としての視点が求められることはないのではないか?

そうだとすると、ネットやブログでは、私達は、「消費者」として、自分の好みを身近に追求していれば良いことになるから、その「付き合い」の範囲は狭くなってもおかしくないはずだ。こうした状況は、ツールという面では、選択の自由を奪うようなツールの使用を、ネット利用者に強制しない限り、変わらないと思う。

ネットなりブログという空間に対して、私達が、「消費者」である以外に「市民」としても参加するかどうかについては、上記のサンスティーンは、(法律家らしく)ネットを現実の社会の延長と見て、現実社会での「市民」としての必要を満たすために、ネットに求められるものは何か、という議論をしているのだと思う。

ネットを現実社会の一延長とみるか、新たな社会空間とみるかという点については、『インターネットの法と慣習』という連載の中で、白田秀彰氏が「部分社会説」「新領域説」という概念を使って書かれているけれど、ネットは様々な技術や規格、標準によって支えられているけれど、現状、独自の法的な基盤はなく、ネット参加者がそれぞれ属する国民国家の法規と国家間協約で代替されている。

例えば、情報空間に破壊的なダメージを与えても、所属する国の法規に反していなければ、その人は(ネット上で非難はされても)処罰されないはずだ。こうした状況下で、ネット参加者に、ネットの管理責任を同程度に問うのには無理がある。つまり、「ネット上での市民」という立場は、現時点では確立されていないのだと思う。

ネット上で「市民」としての行動を求められない限り、私達は自分の好きなものを求めることに終始する。これが、ネットという空間の維持管理にどんな影響を及ぼすか、まだ分からないけれど、少なくとも、新たに便利なツールが導入されることでは解決できないのではないだろうか?

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February 01, 2005

ローマ人の「世襲」回避の選択は間違えていたのだろうか?

[週刊!岡本編集長] 『ローマ人の物語』

「週刊!木村剛」の木曜日、岡本編集長の1月27日のエントリー。塩野七生さんの『ローマ人の物語』の紹介と、ローマ末期の封建化への流れが述べられている。塩野さんは自分でもあれこれ読んでいるので、少し書いてみる。

中世の封建制の桎梏、それはみんなが精神的に誰かに依存して、自立心をなくしていくところから始まった、そのスタート地点が、帝政ローマ末期なのではないかとわたしは思います。
で、なぜそんな話を長々としたのかというと、これを日本に当てはめるとどうなるのかというのが、この先に続くことになるからなんです。それはまた次回以降ということで。
ということなので、岡本編集長の趣旨は、ローマ史そのものにはない様子。

「世襲」「絶対君主制」という辺りがキーワードのようだけれど、現代の日本にどう当てはめるのか、ちょっと分からない。2月3日を楽しみにするしかなさそうだ(うまい続け方だなw)。

ただ、ちょっと気になるのは、ローマの世襲というのは、カエサル以降のことではなかったはず。元老院自体が、世襲の元老院階級によって成り立っていたのだから、共和制ローマ自体、一種の世襲制だったともいえる。

そして、そうした世襲でありながら、(最初期の王政の失敗に懲りて)王のような単独の絶対権力者を作らずに、市民会議と元老院が承認した執政官等の寡頭制を通してきたのが、共和制ローマだったから、岡本編集長が:

世襲の弊害に対するストッパーが政治体制に織り込まれませんでした。というより、古代ではおそらくそんなことは考えもしなかったのでしょう。

とされているのは、ちょっと当たっていないと思う。

ローマ人はローマ人なりに世襲の弊害には気づいていたはずで、執政官は次の執政官を任命できた訳ではないし、皇帝が次の皇帝を指名して世襲に成功するのは、その皇帝が周囲から支持されていた場合だけで、支持を失えば、各地の軍団から推戴された「皇帝」達の間で、一種の革命戦争が起きていた。非効率かもしれないが、それほど「世襲」は回避すべきものと意識されていたように思える。

こうした共和制から帝政にローマが移行した理由は、モムゼンとかトインビーとかが様々に言っているけれど、塩野さんは、(乱暴に要約すれば)ローマ自体が都市国家から世界国家になったからだと分析していたと思う。

古代のような技術基盤の下で、大量の情報を処理して広大な地域を支配するには、皇帝による集権化が必要(或いは好都合)だったということなのかもしれない。

その究極が、コンスタンティヌスによる絶対君主化だったとすれば、「世界国家」の経営手法として、ローマ人達は全く適していない選択をした訳ではないけれど、その行き着いた先では、世界国家という存在とか機構とかがローマの存続を困難にしてしまい、自壊してしまった、という、一種の悲劇だったのかもしれない。

そこには、岡本編集長のいう「世襲」よりは、「社会主義」化による自己統治の機能不全の方が当てはまるような気がする。

さて、この話を、どう今の日本に結びつけるのか、岡本編集長の腕前を拝見させていただくこととしたい。

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January 27, 2005

大所高所での議論という落とし穴

「改革」の3段階理解して議論を

「週刊!木村剛」の水曜日、1月25日のコラム。構造改革の議論には3段階あって、それを無視した議論は改革自体の足を引っ張るだけという話。個人的には、いわゆる「大所高所からの議論」の偏重が背景にあるように思えるので、少し書いてみる。

<「大所高所からの議論」というもの>
私達の周りでは、「大所高所からの議論」が、現場の議論などより偉いと受け取られていることが多いように思う。政治、経済、社会、教育と相当に広い分野で共通に見られる傾向なのではないか。旧陸軍でも見られた傾向という記述も見かけたことがあるから、20世紀以来の伝統なのかもしれない。

たとえば、新聞や論壇誌の社説・論説欄には、まず具体的な議論は見かけられない。そういうことは新聞・論壇誌の「壇上」でする議論ではなく、「現場の部下にやらせておく事」という位置づけなのかもしれない。

そして、なぜか、「大所高所からの議論」の対極は「銭勘定」とされているふしもあって、そんな理由で、大所高所からの議論を選択している人は多いようだ。

ただ銭勘定の世界では、銭勘定以外の話は、「書生論」として嫌悪されるようなので、具体的・技術的な政策論は、どちらの側でも相手にされていないように思える。

あるいは、日本の人事制度というか職掌配分も、こうした状況に影響を与えている可能性もある。官公庁や大企業では、課長職以上の人達は、具体的な仕事にはタッチしないことが多い。

「大所高所からの議論」をするのが、彼等の職務と認識されているとすれば、大所高所からの議論がなくなることは、まずなさそうだから、そうした議論を受け取る私達の側で気をつけるしかない。

<とりあえずのまとめ>
結局、現場での実効性に責任を持たなければいけない人は、「大所高所からの議論」が、どの段階でどこまで役に立つのか、そして、大所高所の議論では、現場を適切に管理できるとは限らない、という点に、注意する必要がありそうだ。

大所高所からの議論をしてくる相手には、気づいていない事も多いので、その議論が「大所高所からの議論」であることを認識してもらう必要がある。或る時間以上、そうした議論に時間を費やすのを規制する必要もあるかもしれない。

大所高所の議論にしか耳を貸さない人達もいるかもしれないから、現場の人達は、そうした人達用に、大所高所からの議論を用意しておく必要もあるだろう。

そんなことにあまり時間を使っている訳にはいかないので、木村さんは『足を引っ張る』と言っているのだろうけれど、この伝統の根強さを考えると、そうした点には、大所高所からの議論が好きな人の協力を得てかわしていくしかないような気がする。

つまり、構造改革については、「今までを捨て去って新たに始める」という選択ができない場合が少なくない。影で改革を進めていく「サムライ」にとって、つきあわざるを得ないしがらみが相当出てくるだろうけれど、つきあわざるを得ないなら、何とかつきあっていくしかないのではないか。

そして、自分自身が、大所高所からの議論という落とし穴に落ちないよう、気をつけていくしかない。気持ちの点では楽になれる落とし穴のようだから。

#なお、当サイトの記事は、クリエイティブコモンズ・ライセンス(要作成者表記)によって
#ライセンスされているので、ライセンスに沿っている限り、ゴーログを始め、いずれで利
#活用されてもかまいません。

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January 16, 2005

それなら、私達は弁護士の眼でも見てみるようにします

「検事の視点」と「弁護士の視点」:ブログはコミュニティだ!

「週刊!木村剛」の1月14日のエントリー。ゴーログの運営について、先日の問いかけを、木村さんが「メディアからコミュニティへ」「検事の視点と弁護士の視点」という言葉でまとめている。FiresideChatsさんquimitoさんginowan1さんから(Annexの方に)TBを頂いて、McDMasterさんのご意見も出ていたので、私なりに少し書いてみたい。

結論からいえば、どんなTBを削除されるのかは、最終的な判断は木村さんにお任せするしかない。ただ、私達に、そうしたTBについて「弁護士の眼」で見る余地も残しておけないかを、検討していただけたらありがたい、という或る意味月並みなお願いをしてみたい。

以下、勝手な事をあれこれ書きますので、適宜ご検討いただけたら幸甚です>木村さん

ゴーログでは、これまで全てのTBを削除しないことになっていたし、木村さんは(おそらく)全てのTBに眼を通していたのだろうと思う。これは、本来、一般の個人ブログには期待できない話で、ゴーログを「ハブ」たらしめていた、(たぶん)最大の特徴だったと思う。

木村さんが今回言っておられるゴーログの改編は、『ゴーログをもう少し個人ブログに近づける』ということではないだろうか?そうだとすれば、木村剛個人の判断として、どうしても削除したいTBがあったとしても、それほどおかしな話ではないはずだ。

ただお願いできるなら、削除するのは、TBがあってから1(~2)日後にして頂けたらと思う。その間に、ゴーログを注視しているブロガーは、或るTBが削除された事に気づいて、どんなTBだったのか、確認できる。ゴーログからTBが削除された後でも、そのブログのエントリーは読めるはずだ。

例えばゴーログについては、「笑わせんなヴォケが!」さんが開発・設置されている『月刊!木村剛 ポータルの「週刊!木村剛 トラックバックの題名一覧」』もあるので、そうしたチェックはかなり容易にできるはず。

或る削除TBをチェックした上で、『弁護士の眼』で見て、残しても良かったのではと考えたブロガーは、自分のブログにエントリーを作成した上で、それをゴーログのゲートキーパー(木村さん本人か、モノログの場合のような担当者の方)にTBする。異議申し立て期間は1日で良いと思う。

これで一応、私達が『弁護士の眼』で、削除されたTBを判断する最低限の機会は残るのではないかと思う。もちろん、結局のところは、どんなTBがどれくらい削除されることになるのか、その実情次第だろうから、こんな面倒なことは、全く必要ないかもしれない。

削除するとなれば、(通常ならば)これまでと同じかそれ以上の注意を各TBに払う必要が生じるはず。ゴーログがどう動いていくのか、まず注視する必要があるはずだ。それが、ゴーログに対する『弁護士の眼』だと思う。

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January 13, 2005

「お神輿経営」は日本の文化?

[週刊!岡本編集長] 「お神輿経営」はどこへ行く

「週刊!木村剛」の水曜日、岡本編集長の1月12日のエントリー。日本の会社経営に典型的な『お神輿経営』の話。

こういう経営は、何も会社だけではないと思う。政治にも行政にも認められる、日本の「文化」ともいえる現象ではないか?

難しいのは、岡本編集長の言葉でいうところの「新日本人」は、こうした経営文化の中で、どう泳いでいくかだろう。うまく周囲に合わせるか、それとも自分に合った場所を探したり作ったりするのか。

うまく周囲に合わせようと思っても、そうしたちょっと毛色の変わった奴には、お神輿経営の人達はなかなか厳しいけれど、会社などの将来を真剣に考えると、お神輿経営に加わる気にはなれない。「新日本人」はかなり困った立場になっているのではないか?

他方、お神輿経営命の「旧日本人」さん達にとって、お神輿経営は日本の「文化」なので、国民全員がその保護・維持に努めるのが当たり前と思ってしまっている。お神輿経営自体が、お神輿化している訳だ。

学力低下も問題だけれど、こうした「文化」を脱却することを、小学校から教えていかないと、お神輿経営は相変わらず、いい加減に日本を引っ張り回していくのではないだろうか?

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NHKにも、ジャーナリスト魂?

政治介入で番組内容変更、NHK担当デスクが調査要求

上記のリンクは、NHKの「戦争をどう裁くか」(2001年1月放送)の担当デスク(チーフ・ディレクター)が、同番組について、政治圧力による内容変更があったとして、NHKに内部告発し、今日13日に都内で記者会見を開いた、という話。

この番組については、制作会社2社が、取材先である民間団体、「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(バウネット)から、「事前説明と異なる内容に変更された」として東京地裁に提訴されており、2004年3月に、制作会社2社に賠償を命じた判決が出たとのこと。

従って、何らかの理由で、取材先への事前説明の趣旨とは異なる、放送内容改変があったことまでは、事実と考えてよさそうだ。

会見時の内容に基づくと思われる上記の記事では:

中川昭一衆院議員、安倍晋三官房副長官(当時)らが放送直前に同局で国会担当をする総合企画室の担当局長らを呼び出し、番組の放送中止を要請。これを受け、当時の松尾武放送総局長の指示で、「女性国際戦犯法廷」が日本国と昭和天皇に責任がある、とした部分をカットするなど変更した。さらにその後、中国人被害者の証言などもカットするよう制作現場に指示があり、通常44分の番組が40分に短縮されて放送された。
とされている。

NHKが本件をどう裁くのか、今後注視していく必要があるだろうけれど、少なくとも、本件を表に出した担当デスクの勇気というか、ジャーナリスト魂は、認められてもいいいのではないだろうか?(もちろん、内部にどんな事情があったのかは分からないけれど)


追記:
<NHK政治介入>「政治圧力受け番組変更せず」 NHK
<NHK「圧力」>海老沢会長の早期退陣訴える 長井暁氏
上のリンクは、NHKの関根昭義放送総局長が発表した見解の話。NHK幹部が中川昭一経済産業相と安倍晋三自民党幹事長代理と面会したことを認めたけれど、面会は呼ばれたものではなく、予算説明に合わせて番組の趣旨や狙いを説明した、という見解らしい。

下のリンクは、上記の担当デスク・長井暁チーフプロデューサーが開いた記者会見の取材記事。長井氏は、今回の公表以前に、NHK社内での問題提起をしていたようだけれど、上層部から満足のいく対応が得られなかったらしい。

少なくとも、現時点でいえることは、NHKが本件について、十分に適切な内部管理を行っていなかったということではないか。

仮に、長井氏の会見での公表内容に、事実でない部分が含まれているとしても、現場の実力あるジャーナリストが、強い疑問を持たざるを得ない状況があって問題提起をしていたのならば、NHKとしては、彼の問題提起に対して十分な調査や説明を行って、事実内容について、その時点で彼の納得を得る必要があったはずだ。

NHKは、ジャーナリストが十全な活動をすることで成立する報道機関であるはず。その点を軽視して、優秀なジャーナリストに今回のような行動を採らせてしまった時点で、NHKの管理態勢に不十分なものがあったと考えざるをえないのではないだろうか?

追記2:
<NHK特番>小泉首相、介入を否定しながら報道側に注文

12日に小泉首相が本件について発表した内容。安倍氏が番組放送前に「偏った内容」などとNHKに申し入れたことを認めた上で、『一方に偏らないで公正な報道を心がけていただきたい』と報道機関に注文をつけたという話だけれど、これはちょっと気になる。

一方に偏らない報道は、当然必要なことだけれど、それは或る報道を中和するのではなく、違った方向・意見の報道がそれぞれに為されることで、実現されるべきだろうから、本件の話にどんなふうに当てはまるのか、微妙な気がする。

今回のような件であれば、NHKの番組とは別に、自民党としての見解をまとめて、公表すれば良かったはず。そうした機会を得るのが、自民党にとって困難だったとは思えない。そうした形であれば、自民党の見解に賛成する人もいたはずだ。

<NHK特番>民衆法廷の主催者が抗議声明 NHKを批判

本件の特集番組の取材先である、市民団体「VAWW―NETジャパン」が、12日、NHK等に抗議声明を発表したという話。

会見では、『東京高裁から17日に予定されていた控訴審の結審の延期も検討しているとの連絡を受けた』という話も出たらしい。延期検討が事実とすれば、東京高裁は、長井氏の会見について、検討すべき新たな事実と捉えたのかもしれない。

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January 10, 2005

ブログは、マスコミより井戸端会議に近いのか?

ブログ:米国では読者3240万人、840万人が開設

上記のリンクは、Pew Internet & American Life Projectが、昨年11月に実施した調査についてのHotWiredニュースの記事で、昨年冬のアメリカでは、インターネットユーザーのうち、7%(840万人)がブロガーで、27%(3240万人)がブログの読者だったという話。

Pew Internet & American Life Projectの公表資料を見ると、同調査は、11月に2回に分けて、1861人のネットユーザーへインタビューしたもの。過去3回(02年6月、03年3月、04年2月)、同様の調査が実施されてきたらしい。

今回の04年11月の調査結果では、ネットユーザーの38%が、『ブログとは何か』知っていたとのこと。アメリカでも、まだ3人に2人は、ブログを知らないということらしい。ちなみに、ブログについては、Web上の日記も含めているとのこと。

そして、ネットユーザーの7%が、自分でブログを開設している「ブロガー」であり、アメリカのネットユーザー全体に換算すると、アメリカのブロガー人口は840万人ということになる。

その内訳をみると、男性は57%、30才未満は48%、7割がブロードバンドユーザーで、82%がネット利用歴6年以上とされている。

ブログ読者は、ネットユーザーの27%。ネットユーザー全体に換算すると3240万人で、前回調査から58%増と急激に増加している。内訳は、ブロガーと同じような傾向らしい。

これらのブログ読者のうち、他人のブログにTBやコメントを加えたことがある者は、ネットユーザーの12%、1440万人だった。

以上の結果については、いろいろな見方ができるだろうけれど、840万人が発行し、1440万人が「反応」しているブログというメディアは、従来の「マスメディア」とも「ミニコミ」とも違ったものになってきている、と見ることができる気がする。

発行側と反応側の比率が2倍以下、発行者と読者の比率がほぼ4倍。この比率からみれば、マスコミよりも、テーブルを囲んだミーティングに近いコミュニケーションなのではないか?

そんなコミュニケーションが、これだけの規模で、ネット上で行われている。そんな現象が、今後、どう捉えられて分析されていくのか、注目していきたいと思う。

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January 09, 2005

まず「首都圏振興銀行」を目指してみては?

[本のソムリエ] 「ペイオフ決戦!どうなる地域金融」

「週刊!木村剛」の土曜日、「本のソムリエ」の1月8日のエントリー。ペイオフを間近に控え、明確な戦略を求められている地域金融についてのドキュメンタリーが紹介されている。

それに絡めての、全く個人的な思いつきだけれど、木村さんが社長になった日本振興銀行は、当面、首都圏、特に京浜、京葉辺りに営業対象を絞って、首都圏振興をまず手がけてみてはどうだろうか?

出口である、不良債権の処理コストを、大きく低減できるような市場整備や運用環境が当分期待できないとすれば、入口である、営業基盤の方を絞り込んでみるのも、1つの手かもしれない、という単純な思いつきにすぎない。

首都圏、例えば大田区辺りには、高度な製造技術を持っているのに資金繰りが苦しい中小企業が相当あるはず。こうした先にリレーションシップ・バンキングを交えながら、日本振興銀行としての特色を活かした融資を成功させられれば、同行の今後の基盤としていけるのではないだろうか?

技術力を活用できていない中小企業に対して、これまでの中小企業金融では、手形を介して運転資金を融通し、景況が回復するのを待つような融資が目立ったように思える。

経済構造が大きく変動している時に、こうした融資だけでは中小企業は技術を活かせないまま、いずれ資金繰り破綻するしかないはず。

足で実態を把握できる範囲で、こうした中小企業に必要な、構造転換のための融資を成功させられないか?これは、日本振興銀行のアジェンダでもあるはずだ。

もちろん、当たり前すぎる発想なので、木村さんには釈迦に説法で笑われてしまうだろうけれど、万が一にも何かの参考になれば。

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January 06, 2005

旧日本人は如何にして旧日本人になったのか?

[週刊!岡本編集長] 新年と引っ越しのごあいさつ

「週刊!木村剛」の木曜日、岡本編集長のエントリー。宗文洲氏の『ニッポン型上司が会社を滅ぼす』に絡めて、持論の『新日本人/旧日本人』をさらに展開されている。新年のご挨拶がてら、少し考えたことをトラックバックさせていただきたい。

この本の中では、「努力、頑張り」などの精神主義、「会社のためならなんでもする」という集団主義がとことんこき下ろされています。痛快です。
それは古い考え方をこき下ろしたいから言っているわけではなくて、それが成果に結びつかない無駄な努力だからなんです。そういう人が上司だったら、みんなの努力が無意味になっちゃうじゃないですか。それはそのチームが負けるだけではなくて、社会全体にとっても資源の無駄になるというところが問題なんです。宋さんはそれを「大義」という言葉で表現しておられますね。

岡本編集長の「新日本人/旧日本人論」は十分納得できる。私自身は、「旧日本人」達も、生まれながらに「旧日本人」だったわけではなくて、彼等を「旧日本人」たらしめているのは、その世代とか血液型というよりは、彼等の会社等での言動だろう、と考えている。

同じ時期に生まれた人でも「新日本人」の人もいるし、「旧日本人」の人が「新日本人」に変わる場合も、個人的には見たことがある。宗文洲氏の「ニッポン型上司」論も、そうした上司達に変革を促しているように読める(もちろん、変われるのならだけれど)。

ただ、厄介なのは、「旧日本人」達自身は『自分は、みんなのこと、会社のことを考えて、言っているんだ』と信じているらしく、自分の言動への批判は、『会社やみんなのことを考えていない奴等が、勝手なことを言っている』とか『会社のためを思っている俺が理解されないなんて、悲劇だ』と受け止めることが少なくない点だ。つまり、自覚してもらうのがかなり難しい。

どうすれば、彼等を納得させて変革させることができるのか?彼等自身が自己改革していくしかなさそうだけれど、それが実現しないと、会社や社会にとってマイナスのままだとしたら、同じ職場にいる者などには他人事ではない。

身近な職場などで「戦っていく」しかないとしたら、彼等がなぜ、旧日本人的な言動を取るようになり、今までそんな言動を続けているのか、理解する必要があるようだ。

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January 04, 2005

木村さんが実績を示してくれることを祈りたい

この2年間が関が原だ!
日本振興銀、木村剛氏の社長就任を発表

上のリンクは、「週刊!木村剛」の1月4日のエントリー。2007年までの2年間に、日本の財政構造には、「破壊」という大鉈を振るう必要がある点で力説されている。議論として全く間違いはないと思う。

そして、たぶん木村さんも同様に感じていると思うけれど、「いよいよ後2年しか残っていない」ということだと思う。

2番目のリンクは、日本振興銀行の代表取締役社長に、木村さんが就任したという話。

フィナンシャル・ジャパンやKfi社長、金融庁のアドバイザリー・チームを辞めた上で、昨年末に報道されていた株主とのトラブルについては、株主総会を開いて解決を図り、『(中小企業向け無担保貸し出しという)ビジネスモデルが成立することを数字で示す』とのこと。

経営者が「数字で示す」と言うのだから、実績として、利益目標なり経営計画を達成してみせるということだろう。昨年末のトラブルへの対応としては、筆頭株主としても、経営陣の1人としても間違いのない判断だと思う。

是非、日本振興銀行の実績によって、「中小企業への無担保融資が成功するはずがない」とか「中小企業=(潜在的)不良債務者」という通念を破壊していただきたい。日本振興銀行だけでなく、日本の金融にとっても重要なアジェンダだから、今後も注目していきたい。

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January 03, 2005

『希望格差社会』を読み終えて 3

山田昌弘氏の『希望格差社会』を読んで考えた事を、もう少し書いてみたい。

以下は、『希望格差社会』における山田氏の主張の正確な解説というよりは、私なりの勝手な読みと敷衍による文章というべきだと思う。読まれる方は、その点、ご注意いただきたい。

<山田氏の提示する「教育問題」への視点>
山田氏の著作を読んだ上でブログに書いてみようと思ったのは、教育問題を、外側からうまく捉えていると思ったからだ。

現時点での教育(制度・政策)の失敗・効力低下を捉える中で、これまでの教育制度からの大きな変更が近年にあったことと、現時点の教育の失敗・効力低下との結びつきについて、山田氏は新しい視点を提供してくれたと思う。

つまり:
1)近年の政策変更以前の教育(仮に「これまでの教育」と呼ぶ)を成功と捉えるのか?
2)近未来に限った今後についても、「これまでの教育」は成功できるのか?
という2点への判断・分析を抜きにして、現在の教育政策の失敗を論じても、有効な結論は出ないはず。

1)は、「成功」の価値判断かもしれないが、仮に成功と捉えるとしても、「どんな成功だったのか」「なぜこれまで、「これまでの教育」は大きな効力低下という失敗に到らなかったのか?」という問いかけと分析が必要だろう。

山田氏は、『パイプライン』という概念で、これまでの教育システムを捉えた上で、『パイプライン』を機能させていた、90年代までの日本の経済環境・社会環境を説明することで、上記の問いかけに氏の回答を示していると思う。

『パイプライン』として捉えられた教育システムとは、元々、その中を円滑に流れていくことが求められているシステムで、受験や就職といったパイプの各分岐をうまく停滞せずに流れている限り、学習内容の修得といった、流れていく各人の質的な高度化、学習内容の修得度合いなどは、それほど厳密にはチェックされていないはずだ。

こう捉えてみると、そんなシステムが成功できる経済社会情勢下では、『別に就職できて中流になれれるのなら、いいじゃないか』ということで、そもそも、客観的な学力の評価・維持が、社会全体の目標なり要請にならなかった可能性があることが分かる。

言ってみれば、『パイプライン』としての教育システムとは、仮に、或るレベル以上の学力修得が学校教育の目標だとしたら、そうした学校教育自体に、それほど重きを置いていなかったシステムだったといえるだろう。学力低下とは、学力というものを、そもそも私達が本気で維持管理してこなかったことの結果なのかもしれない。

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December 31, 2004

ブログを書き始めた年が終わるにあたって

Blogを26カ月続けてみて

自分でブログを書き始めた、初めての年が暮れようとしている。とりあえずの形だけではあるけれど、7月下旬から毎日書き続けられたことが、1つの成果だと思っている。

予想していたよりずっと多くの方達に読んで頂いていたようで、正直驚いている。

特定のテーマを追求するのではなく、その時々、主にネット上の記事から考えた事、気になった事を書いているので、読みづらいところも多いはずなのに、(正確なデータではないけれど)8月以降の平均で、500PV/日、200visits/日のアクセスが継続していることは、本当にありがたいことと思っている。何かお役に立っていればいいのだけれど(w

上のリンクは、30日で最終回となった、梅田望夫氏の「英語で読むITトレンド」の最後のエントリー。26ヶ月続いた人気ブログと、同じ場所に到達できたとはとても思えないけれど:

それで、自分がこれからBlogを長く続けていけるとしたらどういうタイプのBlogだろう、ということをずいぶん考えた。結論は、自分のとっての「知的生産のための道具」という意義に集約していった。
本欄では実験的に、活発な議論がわくだろうテーマをときどきは選んでみたけれど、正直なところ「そういうことをずっと続けていきたい」と思えるほどの興味はわかなかった。議論はまあ本業の世界、つまり自分のリアルワールドの仕事で嫌というほどやっているわけだから、わざわざその上ネットでも・・・という気が起こらなかった、というのもある。毎日続けている勉強のプロセスの一部を公開するという意味合いでBlogを始めて、それを続けてみようというのが基本姿勢だったわけで、結局そこに戻っていくのだなぁということである。

という箇所には、全く共感できた。

プロ野球改革の時も、ブロガー新聞の時も、言い訳になるかもしれないけれど、私は自分の意見を伝えたいというよりは、「これは他の人に伝えたい」と思えたネット上の記事や意見を、他の人達につないでいくことに、重心を置いてきたつもりでいる。

それが、自分にとっての「ブログ」であり、「ジャーナリズム」だと思うから。つないでいく中で、自分なりの分析を提示して、読んでくれた人に自分の意見を汲み取ってもらえたら、私はそれで十分だと思っている。

いい加減に書いているつもりはないけれど、このブログを書き続けることは、私の日々の全てではなく、「日々のかけら」だ。このスタンスはこれまで変えてきていないし、これからも保っていきたいと思う。そして、自分にとって欠かせなくなってきたこの道具に、磨きをかけていきたい。

コメントやトラックバックを頂いた方々、読んでくださっている方、どうぞ来年も、そんなmy.Hurusato.orgを、宜しくお願いいたします。

新年は、今年のエントリーでたぶん一番TBやコメントを頂いた、キャス・サンスティーンの本を読み返しているので、その話をもう少し書いてみようと思っている。

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December 30, 2004

『希望格差社会』を読み終えて 2

山田昌弘氏の『希望格差社会』を読んで考えたことを、もう少し書いてみる。

1)まず、昨日のエントリーの中で書いた「リスク管理能力・態勢の導入・強化」と、山田氏が紹介・敷衍している『パイプライン』(ダニエル・ヤンミン等が日本の教育課程を捉えた概念)について。

例えば、現在の『パイプライン』は、一定の年齢になったら、青少年に一斉に、受験という形で「株」を買わせる制度だと捉えることも出来ると思う。

かつては、どの銘柄を買っても或る程度満足なリターンが得られたけれど、最近は、低人気の銘柄では、投資した元本が保証されなくなってしまったということではないか。

もし、受験を通じて購入する「株」のリスク量が増大しているのなら、購入時点で、各銘柄の抱えるリスクの種類・量について、できるだけ正確な情報を、受験指導等を通じて、購入者が得られるようにする必要があるだろう。

ところが、受験する学校の情報は、リスク情報(例えば就職できない可能性の大きさ等)としては極めて不十分な開示しかなされていないと思う。こんな状況で『頑張って株を買うんだ』と指導して、受験という投資に失敗する者が出てきたとしたら、自己責任には帰しがたいはずだ。

リスクへの管理能力・態勢の導入・強化とは、こうした「投資家保護」措置が、教育や就職にも必要だろうということだ。

2)次に、リスク化・二極化は、若者だけの問題ではないということ。

現在の私達の社会制度等は、「終身雇用・年功賃金」「専業主婦家庭」を当然の前提として、そうした世帯に依存していると思う。

仮に、今後、そうした世帯が安定的に存在し続けるのが困難になるとしたら、そうした社会制度等の維持も困難になるはず。

この時、社会制度等を維持しようとするのならば、専業主婦家庭等を形成・維持するためのリスクを、若者だけでなく社会全体で負担するなり、軽減する必要があるだろう。これが出来なければ、社会制度等の維持はますます困難になって、制度の方を修正する必要が出てくるかもしれない。

いずれにしても、若者にリスク負担を集中して解決できる問題ではない点を、私達は理解する必要があるのではないだろうか?

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December 29, 2004

『希望格差社会』を読み終えて 1

山田昌弘氏の『希望格差社会』を読み終えたので、少し書いておきたい。

この本の中で、山田氏は、職業・家族・教育という、社会の3つの側面について、リスク化と二極化が進行していることを指摘している。

詳しい内容に触れるのは、また後日として、結局、この状況をどう打開すべきなのかについて、自分なりに総括してしまうと、リスク管理能力・態勢の導入・強化ということではないのだろうか?

つまり、社会生活をおくること自体に、様々なリスクが伴うようになってきた状況は、おそらく変えられない。そして、リスクが伴うということは、それだけリターンも大きくなってきているということでもある。

そうだとすれば、リスクを取る(テイク)能力をいかに身に付けていくか、そして、直面しているリスクが、その時には取れない程度のものならば、その時は無理して取らずに、取れるようになった時に、取ることができるような社会制度を準備すること。これらが、対策の根幹になるはずだ。

リスクを取れる人には積極的にリスクを取ってもらう。リスクをその時取れない人には、無理にリスクを取らせないようにする。成長と安定化を同時に達成するには、この2つが必要なのではないか?

そして、いつでもリスクを取れるようになったら、取れるようになった範囲でリスクを取って、それだけのリターンが得られるようにする。後は、各リスクと各自の対応能力・対応態勢の見極めを、社会的にもサポートしていくことではないか?

具体的には、例えば職業・教育分野では、受入態勢の多様化・柔軟化なのではないか?そして、注意すべきことは、現在の私達の社会制度が、「終身雇用・年功賃金」「専業主婦家庭」を当然の前提として、そうした世帯に依存していることだろう。

つまり、そうした世帯が、安定的に十分な数、存在し続けなければ、社会制度の方がとこかで破綻するはずだから、職業・教育・家庭におけるリスク化・二極化は、若者だけの問題ではないということだ。社会制度を、高リスク化に合わせて変革する必要があるのではないか?

次のエントリーでも、もう少し書いてみたい。

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December 26, 2004

法律を知ろうとしない立法者に明日を託せるのだろうか?

民主議員辞職 公選法にも問題がある

衆院宮城1区・2区での労組幹部の選挙違反事件について、最高裁が上告を棄却した話。上記のリンクは、MSN毎日新聞の社説。

裁判では、報酬を約束した電話作戦の違法性が争われ、最高裁は、アルバイト運動員の場合を違法と認定している。

ちょっと呆れたのは、以下の部分:

この事件に該当する公選法改正は93年に行われている。当時、民主党はまだ存在していなかった。法改正の眼目が小選挙区制の導入だったため、ほとんどの国会議員は細かい改正部分に注意を払っていなかった。この時には、連座制の対象を拡大する法改正も併せて行われている。
民主党関係者に言わせると、この改正項目に気づいたのは施行されてからだという。事件の背景には、労組の組織率が低下し、選挙に駆りだされる運動員が金を払わないと動いてくれないという実態もあった。
立法している国会議員やそれをサポートする組織が、『注意を払っていなかった』『この改正項目に気づいたのは施行されてから』というのは、どういうことなのだろうか?一体、自分達が審議している法律を、本当に読んで検討しているのだろうか?

しかも問題は、自分達がその法律の想定する当事者なのに、十分な検討をしていなかったということ。巷で話題になってきている『法令遵守意識』が欠けていたと言われても、仕方がないのではないか?M物産やS鉄道と同じレベルの話だろう。

政権交代も大事だけれど、国会議員や政党には、自分達の体質改善も同じくらい必要なのではないだろうか?このままでは、政権を取れたとしても、本当に大事なことが実現できるのか、心許ない限りだ。

この手の選挙違反は、昔から手法を変えては繰り返されている。官僚や大企業だけでなく、実は国会議員にも、自浄能力なんて期待できないのではないだろうか?

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「鳥新聞」からのコメントへ:

「鳥新聞」さんから、(このAnnexではなく本館の)10月4日のエントリーにトラックバックを頂いたので、ちょっと書いてみる。

1)「鳥新聞」さんが、『サンスティーンの引用』とされている部分は、私の勝手な要約だ。明記しとかないと、勘違いしかねない書き方だったかもしれない。申し訳なかったです。

2)上記のエントリーの中で、「鳥新聞」さんが『民主主義が多数決だ』と言われるのは、私もその通りだと思うけれど、多数決というのは、負けた方を無視ないし抹殺するという前提には、少なくとも「本来は」立っていないはず。

例えばビジネスならば、一種の食い合いなので、負けた方は何のリスペクトも受けずに、冷や飯食わされたり、消されてしまう事も、(違法でない範囲で)あり得ることだと思う。

他方、政治の多数決でそんな事をやってしまうと、ファシズム(とか多数の独裁)になるだろうから、基本的に避けることになっているはずだ。

日本の政治では、この辺りが曖昧というかごまかすことになっているようで、理念の対立を明確にすることなく、けなし合いに終始しているから、多数決でも何が選択されたのかが、曖昧になってしまっている。元々対立していないから、少数意見の尊重なんて配慮の必要が感じられていないように思える。

私がエントリーの中で紹介していた、キャス・サンスティーンは、連邦最高裁判事の候補といわれるような人で、或る意味、ネットをものすごく真面目に捉えていて、上記のような「政治」を担う道具になりうると考えている様子。

だから、ネット上での「多数決」の実効性のような点にも拘っていて、ネットは、アメリカ流のバリバリのディベートができる環境でなければいけないと考えているのだと思う。

3)「鳥新聞」さんは、「貞子ちゃんの連れ連れ日記」から:

私は共感を感じないところには行かない。勉強になるところと 共感を感じるところと 共感の嵐でお腹抱えて笑えるところしか 私は行きたくない。 だいだい 年末ですし 子供も愛する夫もいて 年賀状の整理だってあるし
という一節を引用されている。

この一節を書かれた筆者の真意はもちろん分からないけれど、『共感を感じないところには行かない』とすれば、ネットをサンスティーンのようには、真面目なものとは捉えていないのかもしれない。それはもちろん、それでかまわない。

ただ、そうしたポジショニングだと、互いに避けあってしまう(のが礼儀とされる)だろうから、ネットではディベートは成立しないだろう。そんな疲れることはネットではしないという、或る意味、普通の立場なのだろうと思う。

4)「鳥新聞」さんのエントリーの本題である、ゴーログ絡みの論争については、特段のコメントはないけれど、引用の時よりは、木村さんの文章を読ませてくれる時の方が、ゴーログはずっと面白いとは思っている。

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December 23, 2004

米田さんのコメントへ:

先日の『大企業維持の方が国是なのか?』というエントリーについて、ココログAnnexの方に、米田さんからコメントを頂いていたのに、出張後+年末のゴタゴタで、全くご返事できずにいたので、お詫びも込めてエントリーでご返事させていただこうと思う。本当に遅くなりましたが、コメントありがとうございました>米田さん

米田さんは:

現在の日本の新技術開発の特にIT関連、エネルギー関連のもたつきは心配しています。やはり軍事関連からの予算の量とその下りてくるまでのスピードにはものすごいものがありますし。
と書かれていて、日本の技術開発に果たしている軍事産業の役割、その側面から見た場合のそうした産業の日本経済への寄与、といった点を、軍事産業の肥大化への懸念と一緒にコメントしておられる。これらの点には、全く同意。

ただ、私のあのエントリーの趣旨は、どちらかといえば、「国是とか言っていた割には、都合が悪くなると、本音と簡単にすりかえちゃうんだね?」という、武器輸出3原則周辺の人々のいい加減さ、或いは『国是』というものの脆弱さに触れてみたかった、という方向にありました。つまり、本当に「国是」っていうのなら、もっとちゃんと管理すべきじゃないの?ということです。

それで、せっかくコメント頂いた米田さんの論点の方でも、以下、少し書いてみます。現場を知らない者の戯れ言ですけれど(w

技術開発には適時・大量の投資が必要なはずで、軍事産業のような資金調達・人材調達が出来る企業体は、相当な優位を持てるはず。そして、そこで開発された技術が民間に還元されれば、私達にとっても十分納得できる「投資」なのだろうと思います。

ただ、その手の企業体で開発された日本の技術って、国際的に見て高度・高機能なのだけれど、飛び抜けて高価じゃないですか?つまりは、ちゃんと市場を見て商売しているのではなく、お金を気にせずにひたすら「良いモノ」を作ってしまっているような気がします。そうして開発された技術は、高価な点が災いして、民間への転用もなかなか進んでいないような気がします。

こうした点への対応として、M重工等が、国是を変えてしまってでも、世界市場を相手にしたビジネスになっていこうとするのは、それ自体、悪い一歩ではないと思います。民間にとっても活用しやい高度技術メーカーになるには、まだまだだと思いますけれど。

あと、例えば、IT系の技術開発の資金調達には、国家予算とか大企業だけでなく、証券化のような手法も取り入れていけないのでしょうか?大型プロジェクトへの投資にも、将来価値とか流動化を考慮に入れた資金調達が、もっとあっていいと思います。H2の失敗とか、もろに世論の反発を受けてしまっていますよね?

以上、コメントへの返事がとんでもなく遅れてしまって、すみませんでした。今後は気を付けます>米田さん

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外圧や外資がプラスになる時もあるのでは?

日本が元気になる規制緩和。外資が儲かる規制緩和

大西宏さんの「マーケティング・エッセンス」の12月22日のエントリー。規制緩和には、「日本が元気になる規制緩和」と「外資が儲かる規制緩和」の2種類があるという話だけれど、ちょっと趣旨が分からないので、自分なりの理解を書いてみる。

なぜ、規制緩和を、こうした2種類に分けておられるのだろうか?単に、『一部の企業には有益でも私達全体にとっては有害となる規制緩和もある』ということではないのだろうか?その見極めが重要というお話ならば、良く分かる。

ただ、私達にとって経済的・社会的に有益となる規制緩和ならば、それを元にして外資が儲けたって、別にかまわないのではないか?最近は、外資でまじめに働いている日本人も少なくないはずだし。

あと、地域特区について:

地域特区も、地域の経済を活性化させ、また地域の個性ある戦略を生みます。経済の波及効果がなくなってしまった公共工事を興して、財務を悪化させるのではなく、新しい産業が生まれるための規制緩和を進めていくことが本当の政府の仕事でしょうね。しかし、日本の産業のダイナミックな世代交代を進めるための、こういった規制緩和は遅れがちです。
と書かれているけれど、地域特区というのは、どちらかといえば、各地域が、一種のオフショアとしての魅力を企業にアピールするための立地条件補強策であって、新しい産業を誕生させる市場とか基盤となるには、1つの地域という経済規模は狭すぎると思う。

1つの地域の市場で成功した企業が、そのまま全国や世界で成功できるとは思えないし、例えば、電源ネットのような基盤系の産業ならば、最初から或る程度のマーケットを対象としてスタートさせる必要があるはず。地域特区というのは、その辺りまで面倒をみてくれる訳ではなかったと思う。

付け加えると、電源ネットが容認された背景には、ADSLと光ファイバーだけでは、日本のブロードバンド普及のスピードに翳りが見えてきて、ブロードバンド普及率では、世界トップ10から脱落してしまったという、一種の外圧もあったのではないかと思う。

これも、『外圧だからダメ』ということではなくて、私達にとってプラスになるのなら、外圧も利用してしまえばいいということなのではないだろうか?

たぶん、大西さんは、以上のような点は十分ご承知の上で書いておられるのだろうけれど、ちょっと気になったので。

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December 22, 2004

日本の専門サービスは、まだまだ鎖国状態

虫歯は海外で治しましょう

「週刊!木村剛」の12月21日のコラム。外国で免許を取得した歯科医師に対する、日本の参入障壁の話。

例えば、欧米とどう違うのかというと、うろ覚えではあるけれど、あちらには「レジデンツ」という制度があって、日本の医師・歯科医師免許を持った人でも、或る程度の医療を行えたはず。

日本にも、外国の医師免許保持者が日本の病院で研修できる制度はあるけれど、何年研修しても、日本での開業資格が得られる訳ではないので、殆ど利用されていなかったと思う。

こんな「鎖国」状態になっている要因は、日本の医療が、日本人しか対象にできず、日本の医療業界の中でしか営業できない脆弱な体質だからだと思う。多言語・多文化を当然に相手にする欧米の医療とは、養成過程や医療技能維持の制度等が大きく違っているようだ。

厚生労働省としては、厚生労働族の議員さん達の圧力もあって、こうした脆弱な業界を守る必要があるのだろうし、日本語を話せない医師を、うまく監督できないのかもしれない。

もちろん、私達が直接困ることはあまりないかもしれないが、日本に居住する外国人達は、G7の先進国なのに、英語を話せる医者がこんなに少ないことに困惑しているはずだ。

こうした状況は、看護師や助産婦、法律や会計・税務の専門家などでも同様だと思う。外国人にとって、安心して暮らせる国とはとても言えないのではないか?日本がグローバル化したと思っているのは、案外、日本人だけなのかもしれない。

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December 21, 2004

山田昌弘『希望格差社会』を読み始めて

山田昌弘氏の『希望格差社会』を読み始めた。例によって、あちこち拾い読みした上で、今朝、初めから読み始めたところ。

「教える技術」の難しさ:ジャンバラヤにトラックバック!

上記の「週刊!木村剛」12月20日のエントリーでは、木村さんが、「教えることの難しさ」「その難しさを克服して教えてくれる教師の貴重さ」という側面から、ゆとり教育への批判を展開されている。

ただ、どうも、山田氏のみるところでは、こうした『教師という投資先の選択』という側面だけでは、ゆとり教育の失敗、学力低下という問題は捉えきれないらしい。

例えば、教育分野でも自由市場化が進んでいる昨今では、『教師という投資先の選択』とは、どんな人に可能な選択なのか、を考えてみる必要がある。

教育技術について、特段の技術革新が広まっているとは聞かないし、大学等での教職課程が急に高度になったという話も聞かないから、教育の一般的な水準には、この10年で大きな進展はないと仮定してみる。

そうだとすれば、現時点で、高度な教育技術を持つ教師を選択するのは、カリスマ美容師や有機食品のように、ゆとりのある人には可能な希少性のある、高価な選択ではあっても、一般的に可能な選択肢ではないのではないか。

そうした選択が可能な人達だけが、自分の子供をゆとり教育の問題点から切り離せるにとどまってしまうのではないか。これだけでは、公共教育政策としては不十分だろう。

公共政策では、セグメント化で対応可能な他の市場とは、別の対応が必要になるということだと思う。

そして、教育によって得られるものを活用して、自分の未来をどこまで開拓できるのか?この点に一般的な見通しが立たなくなってきている昨今では、どんなに優れた教育でも、活用する事を諦めてしまう者が増えるのを止められないのではないか?

つまり、教育が機能するためには、その外側の社会問題に、何らかの解決を見つける必要があるらしい。

まだ読み始めたばかりだけれど、山田氏が提示している「教育問題」とは、こんな広がりを持っているようだ。

この問題の公共的な解決の難しさは、初めの話に戻れば、カリスマ教師を選択できる人達にとっては「どうでもいい問題」と捉えられてしまう点にある。

自分にとって直接は関係ない人達にも、社会全体を明るいものにするために、協力を求められるか?これは、みんなが同じように得するか損する、これまでの政治解決とは別の困難が伴う問題なのかもしれない。

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December 18, 2004

ブログやSNSは勉強会の代わりにならないか?

[週刊!岡本編集長] My favorite things <3>

「週刊!木村剛」の土曜日、岡本編集長のエントリー。ブログ・ジャーナリズムと勉強会について自身の経験と持論を展開されている。

私自身は、リアルの勉強会の経験はあまりないけれど、今のところ、ブログを書くのが一種の勉強会だと思って続けている。有名ブログやゴーログ周辺のブロガーには多彩な背景を持つ方が多数おられるし、そうした方の意見に、ブログを通じて触れるだけでなく、自分の意見をTBで返してやり取りもできる。

確かにバーチャルな場でしかないので、リアルな人間同士のやり取りには劣る面も多いだろうけれど、オフラインでブロガー達と会う機会が得られれば、かなり充実した勉強会に出来るはずだ。その意味では、ソーシャルネットワークの方が、さらに勉強会色が強いといえるのかもしれない。

リアルな勉強会の方でも、今後は、共同運営のブログ等が必須になってくるのではないだろうか?

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December 12, 2004

ネタにしたい人には「問題」らしいことについて

切込隊長、本当に残念です。でも、ありがとう。
木村剛2 ~クイズ17人に聞きました

やれやれ、なんでまた木村さんは、一・部外者の私のところに話を振るのかな?それに、トラックバックいただいたエントリーは、ゴーログにはTBしていなかったと思うのだけれど。

一番の上のリンクは、「週刊!木村剛」の12月12日のエントリー。2番目のリンク:切込隊長の12月10日のエントリーへの返答ということになるのだろう。

その中で:

なお、切込隊長が設定した設問に対しては、「my.Hurusato.org」さんが「雑感:日本振興銀行についての切込隊長の記事について」において整理していらっしゃいますので、ご一読まで。
と、私のエントリーをご紹介いただいた。ありがとうございました。ただ、上に書いたように、この記事は、ゴーログにはTBしていません。

理由は、記事の題材にしていた隊長のエントリーについて、木村さんに何か言えるような関係者では、私はないから。

そして、民間企業の話は、法令違反とか公共への大迷惑とかがない限り、部外者が「不適切」とかいうべきではないと思っているから。

甘やかすのではなく、自分達の手で何とかするのが当然で、他人が手を貸してやる必要はないと思うから。だって、それくらい覚悟して企業始めたはずでしょう?

そうした観点から、結論をいってしまえば、上の2番目のリンクで、切込隊長氏が書かれている情報に接しても、隊長氏の「問題」は、私にとっては「問題」ではなさそう。日本振興銀行に特段の利害関係もなく、隊長のような「特段の関心」もないのだから、仕方がない。

それに、株主間でちゃんと話せば済みそうな、思っていたよりマトモな話なのではないか?もちろん、私にはそう思えるだけで、心配性なのかもしれない隊長氏にどう思えるのかは分からない。

それと:

関係者「そう、貸し出しをした40億全額を、引当として積まないといけない」
山本「そうすると、資本金30億しかないのでいきなり債務超過になる」
なにこれ!? 日本振興銀行の9月中間期(PDFファイル)の開示債権額が40億21百万円、そのうち37億91百万円は正常債権だよね?

普通に考えたら、正常債権には引き当てする必要はない。金融庁検査マニュアルでいう、「債務者分類」ではなく、「債権分類」の方の話で、正常債権はI分類だから、担保があってもなくても引き当て不要じゃなかったかな?

3ヶ月延滞とかでII分類やIII分類になると、優良担保とか優良保証とかが問題になるはずだけれど。

唯一心配なのは、債権分類が間違いなく出来ているかどうか。こればかりは、個々の貸出先の話なので、個々に見ることができない限り、判断すべきじゃないと思う。

財務諸表を見て気になるのは、どちらかといえば、業務収益(84百万円)に対して過大な業務費用(11億6百万円)。

もちろん、これはいわゆる「創業赤字」という奴なのだろうから、この費用が後2年くらいのうちに収益につながるかどうかが鍵なのではないか?収益につながらないような費用がきちんと抑えられているかどうかも、株主には気になるところかもしれない。

さて、記事をご紹介いただいた御礼(?)として、木村さんに一言:
情報管理はもっと厳重にされてはどうですか?ご時世柄、情報漏洩は信用にかなり響く可能性が高いと思いますよ!

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December 11, 2004

医者にも品質管理が必要なのでは?

東京医大病院、心臓弁手術で4人死亡…同一医師が担当

東京医科大学病院2外科で、2002年10月から今年にかけて、或る男性心臓外科医が担当した心臓弁膜症の患者4人が、手術後に相次いで死亡していたという話。

医療ミスを疑った3遺族は、東京簡裁に証拠保全を請求、これを受けて同簡裁は10日、死亡患者3人の診療録(カルテ)などの保全手続きを行った。心臓弁膜症手術の死亡率は3―4%とされ、専門家は「極めて異常な事態」としている。外科医が所属する医局は、院長ら病院トップに事実を報告していなかった。

こんな人でも医者を続けることができて、高い報酬を得られるんだとしたら、医者というのは、本当にうらやましい商売だ。M自動車並みでも問題なしということか?

政治や経済については、情報武装して分析能力磨けば、或る程度自衛できるけれど、病気については、医者という専門知識・経験があるだけの普通の人に、場合によっては命までお預けしないといけない。医師の品質検査を導入するべきじゃないだろうか?

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December 07, 2004

都は、都を検査できているのか?

排ガス虚偽データ 都職員、実験中に釣り 立ち会い先で物産社員と
排ガスデータ:都の検査甘く 自社試験で審査パスも
東京都、データねつ造で三井物産社員ら告訴へ

首都圏のディーゼル車排ガス規制で三井物産が虚偽データを提出して指定を受けたディーゼル車の粒子状物質除去装置(DPF)の話だけれど、一番上のリンクは、その装置の性能確認実験の際に、都職員の立ち会い2人のうち1人が物産職員と釣りに出かけていたという話。

こういう奴がいるから、公務員批判が止まないのも無理はない。『都は~職員2人から事情を聴く』ということだけれど、本当にちゃんと処置してくれるのだろうか?

真ん中のリンクは、虚偽データを受け取ったとされている都側の検査制度自体が、自社や親会社の検査のデータを認容する、ちょっと「甘い」ものとなっており、指定した25製品のうち12製品が、他の13製品のような公的機関での検査を受けていなかったという話。

自社や親会社の検査が全て甘いとはいえないとしても、公的機関検査で統一した方が偽造データを受け取る可能性は減るはずだ。それでも都は、今後もこの制度を変える積もりはないらしい。

かなり昔の話になるけれど、某銀行がシステムクラッシュした時も、都は急いで検査に入ったけれど、大した成果は得られなかったと聞いたことがある。検査態勢ってどう考えているのだろうか?偽造データを受け取るということは、自分達にも隙があったということではないだろうか?

最後のリンクは、そんな自分達の態勢はともかく、都が、三井物産を「詐欺」「公正証書原本不実記載」「偽計業務妨害」の容疑で告訴するという話。

もちろん、物産が不正に取得した補助金相当額約18億円はちゃんと取り返してほしいけれど、釣りをしていた職員の給料とか、私達の生活を守ってくれる公正・確実な検査態勢については、誰が訴えてくれるのだろうか?

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December 05, 2004

なぜ今、個人所得増税なのか?

定率減税で賛否両論、GDP2次速報受け次回さらに議論=諮問会議
来年度 国債依存度4年ぶり下げ 法人・消費税収伸び

上のリンクは、景気が回復してきたので、国の財政再建に向けて、所得税、個人住民税に導入されている「定率減税」を縮小・廃止しようという話。

よく分からないのだけれど、下のリンクの記事では、財務省は来年度は国債依存度を引き下げるようで、その理由は、法人税収と消費税収の伸びだそうだ。それで、なぜ、所得税と個人住民税という個人所得への増税なのか?法人税や消費税なら、まだ分かるけれど?

どこかの記事でも、直近の企業決算では統計史上最大?の利益が計上されているとのことだった。そりゃそうだと思う。

雇用は回復してきたといっても、有効求人倍率はまだ1を下回っているから、働きたい人みんなに求人がある状態ではない。まだ、企業はそんなに人を取り始めている訳ではない。

人員・設備削減によって景気は回復したけれど、その売上増は、まだ給与よりも内部留保に向けられている様子。

設備投資が伸びているけれど、昨今の設備投資は輸出部門とIT化、省力化の要素が強いようだから、国内雇用の回復に強く結びつくものではなさそう。個人レベルの所得改善にはまだまだ結びつかないはず。

それに、企業は抱えている過剰債務と過剰設備の償却を、(抜本的な経営改革ではなく)内部留保を厚くすることで乗り切ろうとするだろうから、労働分配率の低さは、しばらくは変わらない可能性が高いと思う。つまり、企業業績が回復しても、それが給与所得回復にはなかなつながっていかないだろう。

この状態で、なぜ個人所得税の増税なのか?上記2つの記事や関連する記事を読んでも、その辺りが議論されている様子は伺えない。

「取りやすいところから取る」というのでもない限り、実に、よく分からない政策だと思う。

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December 02, 2004

ブログの記事から、どうやって価値を見出すか? 4

「木村剛モノログ横丁~トラックバック井戸端会議」オープン

11月30日、「週刊!木村剛」で始まった、モノについて語るブログ「モノログ」。ブログから価値を見つけ出す、或いはブログに価値を付ける方法としては、なかなか良く考えられた手法なのではないだろうか?もしかしたら、「湯川・切込隊長論争」なども研究したものなのかもしれないと思えたので、少し書いてみたい。

まず、これまでのゴーログ(切込隊長氏の言葉を借りれば木村さん流のポジショントークも為される場所)とは切り離されたトラックバック・センターで、急速に増加してきている一般のブロガー達にもトラックバックしやすいテーマ設定が為されている。

論争や政策提言ではなく、身近なモノについて「ご意見番」(モデレータ)達が語り、ブロガー達からのトラックバックを募集し、それを月末のまとめに向けてモデレータがまとめていく。

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緊急時ならば、サービス残業も正当化されるのか?

震災の川西町、超勤手当は不支給…ボランティアに配慮

新潟県中越地震で大きな被害の出た川西町で、復旧業務等で残業が続いている町職員に対する時間外勤務手当を支給しないと決めたという話。

恐ろしいというか、従来からの悪弊が変わっていないと感じられたのは、以下の部分:

労働基準法に抵触する恐れがあるが、町は、被災住民やボランティア活動に配慮し、「職員が自発的に行った」とみなすことにした。

上記の記事に記述があるけれど、新潟県の他の市町村では支給を続けている。過去の震災でも減額しながら支給を続けたらしい。川西町だけ正当化される理由があったのだろうか?

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「検査」「監査」が企業にとってリスクである理由

「監査リスク」とは何事か

「週刊!木村剛」の11月30日のエントリー。株主に係る不正届け出が問題視される割に、あまり問題視されていない財務書類の虚偽記載の悪質性を、木村さんが糾弾している。

上記のエントリーの中で、「検査」「監査」がリスクと見なされることの奇妙さが書かれていたけれど、「検査」「監査」が企業でリスク扱いされる理由は、比較的簡単だ。そうした企業は、普段、そんなことにはお構いなしで運営されていて、経営陣や管理層も、そんなことお構いなしで儲けることを指導してきているからだろう。

それ以外、「検査」「監査」という『実際にあった通り』を検証する業務がリスクになる、妥当な理由が個人的には考えられない。

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